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「夕日コンサート」と夕日

白新同窓会通信(平成14年9月2日配信)より
15期卒業生 小島隆

昭和59年の夏でした。「新潟市活性化試案」を個人的に作成して、新潟市役所や新潟市内の各団体あるいは“街づくり”に関心ある方々に声を掛けたのが、そもそも「夕日コンサート」の始りでした。その案のなかに、新潟の海岸で夕日をバックにコンサートをというアイディアがあったのです。
  この企画をサポートしてくれたのは、東京のある広告代理店です。具体案を練る為にそこの担当者が事前に新潟を訪れ、「何が新潟を売り出す目玉になるか」を市民にインタビューしました。
  それまで、新潟市民は観光客が来ても見るものがない、これといって県外の人に誇れるものがないと思っていたようです。(今でもそう思っている方が多いのではないでしょうか)インタビューもごたぶんに漏れず、聞く人、尋ねる人、そんな返事が大半だったそうです。
  そこで、彼は質問を変えて「皆さんが市内で生活していてホッとするところ、あるいはふと心の安らぎに感じるものは何ですか」と尋ねたそうです。その質問に対して返ってきた答えのなかに、“日本海に沈む夕日”がありました。それがヒントになって、夕日をバックにしたイベント、夕日のコンサートが生まれました。

「夕日のコンサート」は、しかし、最初はなかなか受け入れてもらえませんでした。持ち込んだ先々で一笑に付されました。“夕日”にそんな価値あるいは魅力があるとは思われなかったのです。それでも、一つの団体が興味を示してくれました。それが新潟市旅館共同組合青年部です。部長さんはその後「コンサート」の責任者として大活躍することになる樋口潤一さんでした。
  旅館組合とコンサートとは妙な取り合わせですが、ちょうどその頃新潟市の旅館は廃業が相次ぎ、組合は相当な危機感を感じている時でした。このままではいけない、旅館だけでなく新潟がダメになる。彼らには旅館もさることながら、新潟市に元気がない、未来を担う若者に元気がない、故郷の新潟を元気にしたい。それには旅館だけが良くなるのではなく、根本から新潟市に活力を与えるために何が出来るか、と考えていたそうです。
  彼らのそうした危機意識と地元新潟への思いがこのアイディアを受け入れるベースとなりました。”夕日”にかけてみる気になったのです。彼らは、説明会を開き、また市長さん、商工会議所と企画書を持って回り賛同者を集めようとしました。しかしこれもまた困難を極めました。アイディアに賛意を示してくれても、結局はお金です。先立つものが集まりません。旅館の青年部の皆さんが八方を手を尽くしましたが成果が上がりません。
  そんな時、少しずつあちこちから協力者があらわれました。 寄付金もわずかですが集まりだしました。そして市民のボランティアも参加し、旅館組合青年部を中心に実行委員会が結成されることになりました。 始めは慎重だった新潟市も協力してくれることになりました。すこしづつコンサートの実現が見えてきたのです。

その後の実現までの経緯は割愛しますが、翌年(昭和60年)の夏、「夕日のコンサート」は見事に花開いたのです。関屋浜で行われた第一回は佐渡の“鼓動”が実行委員会の意気に感じて出演してくれました。集まった聴衆は約4千人。肝心な夕日は生憎曇り空でほとんど見ることは出来ませんでした。しかし、その日はそれまで頑張った実行委員会、とりわけ新潟市旅館組合青年部にとっては、その後計18回を数え(平成14年で)数万人を集め新潟市の夏の風物詩となったコンサートの幕開け、として決して忘れられぬ日になったことでしょう。
  「夕日コンサート」はその後、NHKの衛生放送で実況中継されたり、サントリーの地域文化大賞を獲得するなどして、今日、新潟のビッグイベントとして県内はもとより、全国的に脚光を浴びることなりました。

「夕日のコンサート」と前後して、芥川賞作家の新井満さんが“あさひに乗って夕日を見に行こう”と開業したばかりの新幹線の宣伝したり、新潟市青年ネットワークが”夕日クルージング“を実施したり、あちこちで “夕日”をテーマにしたイベントやキャッチフレーズが目につくようになりました。

「夕日コンサート」を契機に、何の変哲も無い日常的な ”夕日” が市民権を得ることになりました。こうして ”夕日” は新潟だけではなく各地で地域の活性化に一役買うことになったのです。

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