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「授業の光景さえ記憶なし」自信のテスト答案も必ずバツ

新潟日報1992年(平成4年)11月25日付 「苦手科目のリポート」

小学校は五回転校して、在校期間は平均一年余りだったので、卒業した鏡渕小学校の一年を除いて先生の名前も顔もよく覚えていない。そんなわけで何が得意で何が苦手な科目だったか記憶にない。

中学校は新潟市の白新で三年間転校せずに通った。中学卒業後、東京に出てそれ以来二十七年間東京に住んで、一昨年新潟へ戻ることになった。高校時代は東京の環境に慣れるだけで精いっぱいの余裕のない学校生活であった。

結局、学校生活のほろ苦くて甘酸っぱい思い出は中学校時代の三年間に凝縮されている、と思っている。それほど白新線の線路わきの木造校舎での三年間の思い出は懐かしく、しばらく新潟を離れて暮らしてみると、故郷への郷愁の原点のような気がしている。

白新中学校一年の時の担任は柴野先生。「人生」というあだ名で、その名の通り人生論をよく語ってくれた。二、三年の時は久住先生。音楽専科で今は新潟大学の教授として活躍しておられる。音楽の授業は苦手で、大体先天的に音感もリズム感もないから音楽は嫌いと開き直って先生を困らせたと思う。

理科は藤本先生。黒板が角ばった字でどんどんと埋まっていく。ノートをとるのに必死だった。数学は三国(現姓宮地)先生。おっとりとした調子で授業を進める。どうもペースが合わなくて間が抜ける気がした。でも出来の悪い生徒たちを根気良く教えてくださった。英語は高橋先生。ちょうど、アメリカ留学から帰っていらした時で「going to」は「gone a」と発音するんだと口語英語を教えてくださった。大体文法もままならないわれわれは、ただ混乱するばかりであった。最近先生にお会いしてこの話をしたら、そんなことを教えた覚えはないと怒っておられた。でもあのチャキチャキな口調は鮮明に記憶に残っている。そしてその口語英語が正しかったと知ったのは、社会に出て初めてアメリカを訪れた時であった。

体育は古田先生。保健体育の時間に男女別になって性教育を受けた。生徒は恥ずかしくて顔を上げられなかったが、時々上目使いに見ると、先生も恥ずかしそうに見えた。古田先生には部活動の陸上競技でもお世話になり、そのOB会を通して卒業後もご指導いただいた。二年前定年退職されたので、顧問としてわが社に来ていただくようお願いすることになったのだが、かつての教え子の下では、と一度は辞退された。しかし今では良きアドバイザーとして、ときには苦言を呈していただいたりして、何かと助けていただいている。

さてこのほかの科目についても数々の思い出はあるのだが、紙面の都合上省略するとして、さっぱり思い出さない科目が一つある。それは国語である。あの先生が国語の先生だったのだと思うのだが、授業の光景を覚えていないのである。ただテストでバラバラになった文章を並び替える問題があったが、これがさっぱりできなかった。絶対に自信があっても返ってくる答案は必ずバツがついていた。

こうしてみると、やっぱり苦手科目は国語で、その国語の苦手な人間がこの欄に寄稿することになって、何となく申し訳なく思っている。

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