昭和9年の汽車時間表が手元にある。鉄道省編纂で発行元は社団法人ジャパンツーリストビューロー(日本旅行協会)となっていて、同社は現JTB(株式会社日本交通公社)の前身であった。今手にしているのは数年前マニアのために発行された復刻版である。当時は時刻表ではなく時間表であった。今の時刻表にもあるページ索引のための地図は昭和9年版にもあって体裁は違わないが、当然ながら時代を映して当時の樺太、中華民国、朝鮮、そして満州が記載されている。最近の時刻表には国際線の航空ダイヤが載っているが、当時は勿論航空便はほとんどなく、替わりに外国航路が世界中に広がっていた。またヨーロッパへの大陸横断鉄道のページには、倫敦、巴里、羅馬、伯林発東京行の時刻表があって、その時代に思いを馳せることができる。現在はわずかな時間で達することのできる外地へ、当時は船にしても列車にしても何日もかけて往復していた。情報の乏しい時代に汽車に乗ること、船で世界に旅することは、現在と比較にならぬほど冒険であって夢に満ちたことであったに違いない。
さて、この時刻表で新潟から今話題の環日本海の諸国へ旅をしてみようと思う。昭和9年当時、新潟からは朝鮮半島の清津、羅津、雄基(現在の先鋒)へ定期航路があった。新潟開港百年略史によると、この航路は昭和6年に開設され、昭和10年には政府によって満州への指定航路とされた。それ以来終戦まで日満交通上、距離、時間、経費の面で最短にして最低廉なコースとして、当時は重要な役割を演ずることになった。この航路のほか、日本海側から清津、雄基へは敦賀からも便があって、ウラジオストクへの定期航路も敦賀から出ている。にもかかわらず新潟が日満航路の指定港になったのは、東京からの距離が敦賀よりも有利だったことによる。東京からは上越線経由で急行列車で約7時間、各駅停車で約10時間であった。
東京からこの旅に参加する場合は、上野発23:30発夜行列車で出発する。新潟には翌朝9:21着、3等運賃で4円10銭であった。2等は3等の2倍、1等は3倍とある。当時の時間表自体は1冊25銭、その中に広告掲載されている旅館の1泊2食の料金はだいたい2円から3円の時代であった。新潟港から嶋谷汽船会社所属の鮮洋丸2,130t、速力13.5ノットに乗り込み、いよいよ出発である。新潟発11:00、日本海を横断して清津着は2日後の11:00、ちょうど48時間。3等運賃で15円の旅である。現在は北朝鮮籍の万景峰号が新潟・元山間を約26時間で結んでいる。元山から清津までは日本海に沿って北上すること617km、当時、朝鮮総督府鉄道局咸鏡線を急行列車で約11時間の距離であった。なお元山から京元線で京城(ソウル)までは急行で5時間であったが、この時代元山から平壌までは鉄道は敷かれていない。さて鮮洋丸は清津を発ってさらに羅津、雄基へと向かう。ここでは清津で下船してハルビンまで汽車の旅をしようと思う。
まずは満鉄北鮮鉄道管理局線で現在は中国領の図們へ向かう。清津発13:35、図們着20:50、173kmである。翌朝、満鉄京図線で図們から吉林を経由して新京へ向かう。新京は今の吉林省の首都長春である。図們・新京間は528km、時間にして約15時間、図們発6:20、新京着21:16である。新京で一夜を過ごし、翌朝、今度は北満鉄道南部線でハルビンに向かう。いよいよ最終区間である。新京発9:20、240kmの距離を走って終着駅ハルビンに14:40に到着。東京を出てから6日目、新潟からは5日目である。最短にして最低廉のコースといっても、満州への距離にして約2,000kmの旅が、如何に長くて苦労の多い旅であったかが容易に想像できる。しかし戦前、この道程を経て多くの日本人が朝鮮半島や今の中国東北部に渡っているのである。多くの人々がまだ見ぬ新大陸に夢を馳せて新潟を後にしたことであろう。その人たちが内地を後に新潟港で船に乗り込むとき、新潟はどう映ったのだろうか。
東京を出発して新潟をゲートウェイとした日満ルートは、結局日本人のみならず多くの人々に悲劇をもたらした。昭和九年の時間表に罪はないが、この1ページ1ページに多くの思いと歴史がこめられている。最近清津を訪れる機会があった。清津東港で受けた説明のなかで、この港がかつて新潟からの定期航路のターミナルであったことを知った。現在の北朝鮮の清津までの距離は、戦前より時間的にも精神的にもはるかに遠い。そして、かつての満州への入り口であった図們へはなお遠い。しかしそれらの地域が、今再び近くなろうとしている。日本海が平和の海に変わりつつある今日、新潟が対岸諸国への悲劇ではなく友好と協調の玄関口として、多くの人々の交流の拠点になることを望みたい。そして時刻表を片手に、多くの人々が環日本海の全ての国々を、国境を越えて平和に自由に旅することの出来る日が近いことを願わずにはいられない。